平成10年12月19日 読売新聞「白石町」より
| 町民に「みっどさん」の愛称で親しまれる水堂安福 寺(嘉瀬慶昭住職)が杵島山中腹にある。同寺の奥の 院にあたる飛び地境内に霊水堂があり、その裏に悪霊 退散、家内安全の効き目があるという水がわき出ている。 言い伝えでは、平安時代、病床にあった高倉天皇が、 「肥前の国に霊水あり。これを服すれば平癒す」との 夢をみた。平清盛の長男、重盛に勅命して取り寄せた 霊水を飲んだところ、病が治った、という。 同寺では毎年、旧暦四月十五日から七月十五日まで 出水法要が営まれる。日本三大水祭りの一つとして、 平安末期の約八百年前から続く伝統行事。ふだんは静 かな境内も、法要期間中は休憩所や土産品店が開店し て、「お水うけ」に訪れる参拝客でにぎわう。来年の 法要は五月二十九日から八月二十五日まで。 |
平成10年12月 広報「白石」 ふるさと歴史探訪ー太田心海先生ー
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平井氏といえば、龍造寺隆信に滅ぼされた高城の城主、平井経治のことがよく知られている。平井一族の墓と 言い伝えられている寿墓(生前に立てた墓碑)も陽興寺の須古鍋島家御霊屋の北側にある。 経治について、江戸時代に記された『水堂観世音霊水縁起』には、次のようにある。「応仁の乱の頃に至り天下 不穏、乱軍の世となり兵火にかかり殆ど烏有に帰しぬ。降って天正年間(1573〜1591)、領主平井経治此の霊地 を空しく荒廃に委するを嘆き安福寺を建立し、尚、他の堂宇をも修復中、龍造寺隆信の攻むる処となり、敗戦し て水堂越えをなし、人村に落ち行く途次、火を放って悉く之を焼き払ひしぞ口惜しけれ」このように、経治は水堂 安福寺復興の功労を認められている反面で、自ら復興した安福寺を灰儘に帰した責めも負わされている。 平井氏については、逃げてきた一族が伝えたと言われている平戸市やその周辺の大島や鷹島などに伝わる須 古踊が有名である。また、踊の形態は異なるが、大村市にも寿古踊があり、文明12年(1480)有馬純伊の時に肥 前須古の者が教えたという。その頃には須古踊というものがあったのであろう。それを有名にしたのが、経治の 伯父で歌道や連歌の達人であった新宗吟入道であった。平井氏が高城城主になったのは、経治の父、経則の 頃ではないかという説もあるが、実はもっと早く文明年間(1469〜1487)には既に須古・白石一帯を統治していた と思われる。それを裏付ける二つの証拠がある。 一つは大分県国東町千光寺の阿弥陀如来坐像であるが、これはもと肥前国杵島郡北郷安福寺塔の本尊だっ たもので、永仁2年(1294)に製作されている。それを文明6年(1474)に修復した時の体内の銘文に「大旦那平井 資世子息頼秀」とある。もう一つは、長崎県鷹島町住吉神社所蔵の大般若経600巻の内、第73巻の奥書であ る。これも本来、安福寺に寄進されたものである。その奥書にも「大旦那平井資世子息頼秀」とあり、日付は文 明5年(1473)6月となっている。この頃、水堂安福寺の大復興事業が行われたことが分かる。そして、その願主が 平井一族であったのである。 これらのことから、平井一族が中世白石の文化に大きな寄与をしたというのは、言い過ぎであろうか。 |
平成10年8月7日 佐賀新聞 有明抄より
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白石町須古の「水堂さん」(安福寺)はお盆を目前ににぎわいを増す。初盆を迎える家族らが仏前に供える霊水 を求めてやってくるからだ。ここは白石平野を見下ろす杵島山の中腹にある◆わき水が管から流れ出ている小 さなお堂は本堂に隣接する。イチョウやクスなどの大木がつくる木陰に、入れ物を手にした順番待ちの列ができ る。容器は昔は一升瓶、今は軽くて割れないペットボトルだ◆平安時代、病気に苦しむ高倉天皇の夢の中に観 音様が現れる。安福寺の霊水をというお告げに、それを取り寄せて飲んだら治ったという由来がある。参拝者は 新仏や先祖の供養に霊水を受けるほか、霊水は腐ることがないと重宝がられている◆出水が始まる5月は鹿島 地区、7月盆の前は佐世保、有田地区、8月盆の前は白石平野一帯と参拝者に流れがあるのも往時のにぎわい ぶりを伝えている。今は茶やコーヒーに最適とミネラルウォーターとしての人気がある◆霊水信仰は水不足に苦 しむ地方にみられるという説がある。白石平野は有明海が干陸化してできた。水道が普及するまでは飲み水は 地下水に頼り、井戸でくみ上げた。日照りが続くと井戸の水は枯れたり、塩辛くなったりした◆混じり気のない真 水に飢えた住民は山のわき水を敬い、霊的なものを感じたというのだ。水は生命の源という切実な思いが込めら れている。お堂の壁からちょろちょろと流れ出てくる出水はその思いを象徴しているようだ。それにしても今は水 をぜいたくに使い過ぎている。 |